奇跡講座と日々の気づき

奇跡講座の実践と日常の気づきをシェアしていきます。

繰り返す死と再生!

久しぶりの記事です。

 

 

 

昨年はこの世界の視点から言うと、人生のあらゆる面でどん底を体験した。

 

 

肩から腕を酷く痛めてしまい、年始から春頃までは夜も眠れず仕事にも行けず、軽い鬱状態となっていた。

 

 

 

その後ある程度回復し、仕事をし始めるものの、大きく崩れた心身のバランスがなかなか安定せず、仕事も休みがちで、何度か転職を繰り返した。

 

 

 

そしてようやく日常生活も安定して来て、丁度8月後半に前回の記事を書いた直後に、新しい職場に移った。

 

 

それまで長い間いろいろな面で落ち込んでいたので、今回の職場では突然スイッチが入り、最初からガンガン飛ばしてがんばっていた。

 

 

頑張れる自分がすごく嬉しかったし、そういう自分を管理者の方もとても評価してくれるので、さらに自分に負荷をかけ大きな目標を設定して頑張っていた。

 

 

気がつけば(よくあることだが)、コースの学習や赦しの実践を脇に追いやり、ますます大きくなるエゴの声に一層耳を傾け始め、この幻想世界での成功や形態レベルでの幸せというものを追いかけ始める。

 

 

 

我ながら何と分かりやすい行動だろう、といつも思う(笑)

 

 

仕事を頑張るだけでは満足せず、高い目標を設定して英語の勉強を始めたり、自宅で筋トレを始めたり、仕事の昼休みなどは同僚のランチへの誘いも断り、一人でカフェで自己啓発本を読んだり英語の勉強をしたり、、、

 

 

あげくには家でも食事時以外は家族と会話もせず部屋にこもって勉強ばかりしていた。

 

 

そんな生活が2ヶ月ぐらい続いた10月後半頃から、身体に湿疹やじんましんが出始め、最初は大した事はなかったがだんだん全身に広がって行った。

 

 

そして痒くて痒くて、あまりに酷い痒みで夜中、何時間も体中を掻きむしってほぼ眠れない日々が始まった。

 

 

元々アトピーや皮膚の病気があるわでではないし、病院で検査してもこれといった原因はわからない。

 

 

最初は何とかがんばって仕事にも行っていたが、不眠状態が続きいよいよ体調もおかしくなり、11月半ば頃から仕事に行けなくなった。

 

 

入社して二ヶ月半ぐらい無遅刻無欠勤で、成績も良く評価もされ、こんなにがんばってきたからこそ、また仕事に行けない状態に酷く落ち込んだ。

 

 

 

しかしもう落ち込んでいる場合ではない。

 

 

 

これこそ赦しの機会である。

 

 

 

聖霊の導きである。

 

 

 

取って付けたように、コースの概念に無理矢理当てはめようとは思わない。

 

 

 

それでも今回の出来事はあまりにも明らかにこの世界の視点でも、この世界を超越した視点の両方でも、因果関係がはっきり見え過ぎてしまった。

 

 

 

医学的に原因がわからないと言われれば言われるほど、手に取るように今回の力動がわかる。

 

 

 

このことをコース的に解説するとかなり長くなるが、ある程度簡単にまとめてみる。

 

 

この世界のレベルで言うなら、あまりに人間関係を断ち切って分離を強化し、『自分』というアイデンティティーをとてつもなく強化してきた。家では娘に対する怒りを心の奥に押し殺し、職場では自分が他者に抜きん出ようとし、緩い感じで働いている同僚達を下の方に見たり、、、。

 

 

このような心理状態から、心理学的にも精神医療的にも、外界との接点である『皮膚』に何からの異常として現れることは大いにあり得るとのことだ。とてもわかりやすい、と納得してしまった。

 

 

しかしこの世界を超越した視点、つまりコースの視点で言うと、

 

 

起こりえない神との分離を信じた神の子が、とてつもない罪悪感のあまり、神からの攻撃を恐れて自らの罪を外側に投影し、自分という存在は外の何か(他人や環境や病気といったもの)からの攻撃を受ける犠牲者であることを証明しようとして、あらゆる証人(病気や他人の言動やその他様々な損失と思える出来事)を自ら作り出して、無意識下で分離を維持し続けようという力動が強く働いている。

 

 

と、こんな感じになるだろうか。

 

 

まあ、これぐらい客観的に分析できている時点で峠は越え、今形のベレルでの肉体は随分回復してきた。

 

 

 

とにかく淡々と病院での治療を続け、赦しの実践も再開し、そして12月半ば頃から何とか仕事にも復帰でき、年末まで力まず普通に仕事をこなした。

 

 

と、その前に実は復帰目前に、派遣会社から次回(1月以降)は契約更新できない、という通達があった。恐らく契約したばかりで長期間病気で休んだことで、今後が懸念されたのだろう。

 

 

派遣会社の担当者となかなか心が通じ合わない気がした。

 

 

 

でもこれも赦しの機会として、聖霊に委ねた。

 

 

 

その後幾分担当者の態度が柔らかくなったような気はする。

 

 

これもシナリオとは思ったが、もう転職も飽き飽きだし、自分としては続けたいという想いが自然に沸き上がる。

 

 

 

その話を派遣先の現場に伝えると、正式には聞いていないとのことで、現場担当者は『今回の事は病気療養で仕方がない事だし、あなたには居てもらわないと困るので、上に掛け合って派遣会社に言ってもらう。』と本当に全力で僕のために動いてくれた。

 

 

派遣会社が僕の雇用主なので、通常だと立場的には逆な感じもするが、今回は派遣先の方にかなり気に入ってもらっていたようだ。

 

 

そして、退職予定になっていたものが、年末ぎりぎりで覆って、契約更新して頂くことになった。

 

 

 

少しこの職場への執着もあったと思うが、好きな人も嫌いな人もいるし、まだ赦せていない人もいるので、これはこれでまた赦しの機会でもある。

 

 

 

まあこのような経緯があって今日このブログを書くに至った。

 

 

 

そして比較的長い年末年始の休暇が今日で終わり、明日からまた出社する。

 

 

 

昨年の夏の終わりに転職して、『さあ頑張るぞ!』という高揚感と喜びの感覚があったが、今はそのときとは全く違った感覚であり、静かな喜びが溢れている。

 

 

また職場であろうと、どこであろうと、神が自分の元へ贈ってくれた兄弟達を赦し、彼らの中にキリストを見て、自分中にもキリストが輝いているのを見る。

 

 

 

これ以上に幸せなことがあるだろうか。

 

 

聖霊に心から感謝!

 

 

 

 

と、このような想いで常に日々をごせたらと思うのである。

 

 

呼吸するだけで罪を覚える

日常赦しを実践して来て最近思うのは、形態のレベルで理不尽な攻撃を受けたり、とでんもない不幸な出来事が身に降り掛かったり、というようなことはほとんどない。

 

 

 

勿論赦しをすると形態レベルが良くなる、という法則はない。

 

 

 

形態はどこまでいっても幻想であり、夢だからである。

 

 

 

これまでの人生を振り返って見ると、今思うのはそれほど酷い出来事が『身に降り掛かった』というような感覚はない。

 

 

 

このブログで書いて来たように、いかにも悲惨な現実を体験しているような気がしないわけではない。

 

 

 

ただはっきり体感しつつあるのが、明らかにそれらの全てが自分の内側でしか起こっていないということである。

 

 

 

だから逆に、ここ最近、形態レベルではどれほど周囲が優しさに満ちているように見えていても、居心地の悪さや罪悪感を強烈に感じる。

 

 

 

時々は外側の『誰か』に投影することもあり攻撃したくなるのだが、よく見るとそこには明確な罪が見えない。

 

 

 

とすれば、自分の内側にしかその罪は存在しないかに見える。

 

 

 

この感覚の恐ろしさは尋常ではない。

 

 

 

僕自身が罪そのものと一体化していしまっている。

 

 

 

自分の存在感そのものが罪悪でしかない。

 

 

 

呼吸するたびに罪を増大させ、罪悪感の刺すような痛みに耐えられない。

 

 

 

 

と、このような文章を書きながら手が震える。

 

 

 

外側は無である。

 

 

 

この真実に対するあまりの恐怖感から、そのことをなかなか受け容れられない。

 

 

 

しかし、自分はこのとてつもない恐れを保持し続けたいのだろうか?

 

 

 

 

神から隠れ続けていたいのだろうか?

 

 

 

 

いや、もう懲り懲りである。

 

 

 

本当は神を思い出したい。

 

 

 

 

だからこそ、毎瞬毎瞬そんな狂気は真理ではなく、真理は真理でしかないと完璧に知っている存在に助けを求める以外にはない。

 

 

 

 

毎瞬の一つ一つの狂った想念を丁寧に聖霊に差し出し続けるしかない。

 

 

 

スマホ見ながらすれ違う人が自分にぶつかりそうになった時に感じる怒りや、メールのやり取りに違和感を感じたり、人にどう思われるかと感じたり、ちょっとした後ろめたさを感じたり、お金に対する不安を感じたり、

 

 

 

どのような形であれ、愛と平安を感じていないのであれば、自分は間違っているのである。

 

 

 

この『想い』を隠さずに、聖霊に明け渡し続けいく。

 

 

 

そうすれば聖霊が取り消してくれる。

 

 

 

もとより一切存在しなかったものである。

 

 

 

 

贖罪が完了していることを本気で受け容れたい。

 

 

本当は分かち合いたい

他人とのコミュニケーションが少なくなると、とても不安になりかなり孤独感に包まれる。

 

 

 

ある種疎外感のようなものを感じる。

 

 

 

それでいて孤独というものを好んでいるところがある。

 

 

 

他人が怖い。

 

 

 

 

人と深く関わるのが怖い。

 

 

 

コース学習者であれ、そうでない人であれ、自分をさらけ出すのは怖い。

 

 

 

 

これまでかなりさらけ出して来たと思っているが、それでもいつでも逃げ出す準備ができている。

 

 

 

 

常に防衛しようとしてきた。

 

 

 

 

だけど防衛することの方がもう苦しくて仕方ない。

 

 

 

 

 

もう防衛したくない。

 

 

 

 

 

 

 

全ての兄弟が自分と同じ神の子であることを知りたい。

 

 

 

 

 

その目的のためだけに全てを捧げたい。

 

 

 

 

 

そのために、兄弟達と結びついていきたい。

 

 

 

 

 

兄弟達は聖霊そのものである。

 

 

 

 

『私は肉体ではない』というコースの根幹を成す概念がある。

 

 

 

 

この自分の肉体は、ただ兄弟と分かち合うためにある。

 

 

 

 

兄弟と結びつき、コミュニケーションを取り、深い所に隠し持っていると思っている罪の想念を光の元に持っていくためだけにある。

 

 

 

 

兄弟とのコミュニケーションも、最初のうちは自我の特別な関係を結ぶために活用されるかもしれない。

 

 

 

 

それもプロセスである。

 

 

 

 

 

その特別性を求める動機が何であるかを認識するためのプロセスである。

 

 

 

 

 

肉体、すなわち自我の想念を温存するために特別性を活用する。

 

 

 

 

 

実際には自我は存在しない。

 

 

 

 

 

存在しないものを温存し続けようというのはまさに狂気である。

 

 

 

 

 

しかしこれはただの間違いであり、恐れる事はなく、毎瞬聖霊に捧げ取り消してもらえばいいのだ。

 

 

 

 

 

ふと気になる人がいれば、その人にアクセスすればいい。

 

 

 

 

そこに多少自我の想念が働こうが、全てが赦しの機会であるのだから。

 

 

 

 

ただ、自我か聖霊か、どちらと一緒に決断をしたか、は常に意識しておきたい。

 

 

 

 

無駄に目覚めを遅らせる必要もない。

 

 

 

 

 

ああ、もっともっと分かち合いたい。

 

 

 

 

闇と思っているものをさらけ出し、分かち合い、兄弟の中に真の自己を認識したい。

 

 

 

 

キリストの顔が見たい。

 

 

 

これから様々な肉体と出会っていくのだろう。

 

 

 

その肉体が幻想であった事を思い出すために。

 

 

 

神を思い出すために。

 

 

たったそれだけのために全てがある

僕は気がつけばよくyou tubeサーフィンをしている。

 

 

 

神を思い出さないために気を散らしている、とまじめなコース学習者の部分の僕は言うだろう。

 

 

 

 

 

しかしさっき突然、ばーーーーっとハートから気付いたことがある。

 

 

 

 

一瞬の気づきなのだが、説明するとこんな感じ。

 

 

 

 

 

 

ここ最近明石家さんまの名言集とか、いろんな番組の名シーンを集めた動画をよくみている。

 

 

 

 

最初はそれこそ気を散らすように、笑いを求めてただ何となく見ているのだが、段々さんまワールドへ没入し、それと一体化してしまう。

 

 

 

 

そして気がつけば笑いながらも感動し、涙ぐんでいる自分がいる。

 

 

 

 

この人は笑いに自分の人生全てを捧げるているのだなあ、と思う。

 

 

 

 

 

 

ふと、俺はこんな動画ばかり見て、一体何をしているんだろう、と虚無感に襲われた。

 

 

 

 

だがその直後、急に、この人は聖霊なんだ、と気付く。

 

 

 

 

彼は24時間365日、どの瞬間も笑いのことしか考えていない。

 

 

 

 

彼は恐らくキャリアを積んでいく中で、自然に自我を手放していっているように見える。

 

 

 

 

僕の中にある、本当は四六時中神へ全てを捧げたいのだ、という部分を思い出させてくれる。

 

 

 

 

 

本気でそう感じる。

 

 

 

 

そこからは、身の回りの全てが、神を思い出すためにしか存在しない、と強烈な確信が湧いて来て胸が熱くなった。

 

 

 

 

今日次女と始めて一緒に区役所に行ったこと

 

 

 

昨日元嫁とかわした何気ない会話

 

 

 

連日の猛暑に対するいらだち

 

 

 

職場の上司とのメールのやり取り

 

 

 

コース学習仲間とのコミュニケーション

 

 

 

大好きなサッカー元オランダ代表のベルカンプファンバステンの映像

 

 

 

そして明石家さんまの発言

 

 

 

 

全てがそれのためにある。

 

 

 

それ以外には全く何の意味もないのだ。

 

 

 

 

この気づきの深さは言葉で表現するのは難しい。

 

 

 

ただ、ハートが歓びで溢れている。

愛であったと気付く

連日の猛暑が続いている。

 

 

 

また体調を崩した。

 

 

 

猛暑のせいにしているが、肉体に対する深い信念があるようだ。

 

 

 

なかなか安定して仕事ができない。

 

 

 

罪の意識に苛まれる。

 

 

 

 

そかから職場の上司や家族から攻撃されているという妄想が始まる。

 

 

 

防衛しなくてはならない。

 

 

 

防衛から殺意に変わる。

 

 

 

 

殺意があると信じている。

 

 

 

 

 

 

そこで、殺意が実在するだろうか、と聖霊に尋ねてみる。

 

 

 

 

すると、それは狂気であってあり得ない、と返って来る。

 

 

 

 

正気の心で眺めれば、職場の上司も家族も本当に優しい。

 

 

 

 

 

こんなに罪深い自分に対し、どうしてこれほどまでに優しいのか、と思う。

 

 

 

 

これが愛なのだろうか。

 

 

 

 

まだ本当の愛がわからない。

 

 

 

 

それでもそこに確かに愛があることに少しずつ気付き始めている。

 

 

 

 

 

涙が込み上げそうでになる。

 

 

 

 

 

毎日の娘や元嫁、職場の人たちとのやりとりが、罪ではなく愛に気付くためなのだ

 

 

 

 

日々のいらだち、憂鬱さ、後ろめたさ、全てを聖霊と一緒に眺める

 

 

 

 

そうすれば、関わる人全てが愛であったと気付く

 

 

 

 

もっともっと本当の愛を僕は知りたい

 

 

 

 

 

 

殺したい!

兄弟を殺したい!

 

 

神子の子を殺したい!

 

 

 

殺意がこみ上げる!

 

 

 

発狂しそうだ!

 

 

 

ほんの些細な一言、状況から

 

 

 

 

何層にも何層にも折り重なったヴェールの奥底にある

 

 

 

 

怒りに触れる

 

 

 

 

 

まださらにその奥があるのか?

 

 

 

 

 

この闇は深い

 

 

 

本当は闇は存在していない

 

 

 

 

 

しかし存在していると信じている

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

真夜中にとあることで憎悪の嵐の中で心が暴れ狂う

 

 

 

 

真夜中ということもあり、この感情を爆発させられない

 

 

 

 

 

爆発させたいのだけれど、、、

 

 

 

 

 

日中一人のときは確実に発狂して叫んでいただろう

 

 

 

 

 

しかし、今は祈る事しかできなかった

 

 

 

 

 

 

神様

 

 

ジーザス

 

 

聖霊

 

 

 

エス

 

 

 

ジーザス・クライスト

 

 

 

ジーザス

 

 

 

ジーザス

 

 

 

 

・・・・

 

 

 

 

ずっとずっとただ名を呼んで

 

 

 

 

助けを請う

 

 

 

 

 

それだけで、微かだが、憎悪が愛に変わる

 

 

 

 

殺したい

 

 

 

 

いや愛したい

 

 

 

死にたい

 

 

 

 

いや生きたい

 

 

 

 

キリストの顔が見たい

 

 

 

神の子を知りたい

 

 

 

 

真の自己を見せて下さい

 

 

 

 

真実を教えて下さい

 

 

 

 

 

私は何も知りません

 

 

 

 

神様・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

私は肉体ではない。私は自由である。

今日ワークブックのレッスン199

 

 

『私は肉体ではない。私は自由である。』

 

 

 

を読んでいました。

 

 

 

全てのレッスンがそうではあるが、このレッスンは

 

 

 

土台をなす概念であり、とても大切だと感じます。

 

 

 

 

なので、じっくりと心に浸透させるようにしていました。

 

 

 

とても静寂な心が蘇って来ました

 

 

 

 

 

 

と、思っていたら、そこからほんの数十秒の間に急に落ち着かなくなり

 

 

 

 

これから出かけようとしていた娘がものすごく気になり出し、

 

 

 

 

取り繕うように話しかけました

 

 

 

それに対する何気ない彼女の返事に対し、

 

 

 

 

ものすごく攻撃されたように感じたのです。

 

 

 

 

それからはまた怒りがこみ上げ止まらなくなる

 

 

 

 

本当にどうにもならない

 

 

 

 

激しく叫びたくなる

 

 

 

 

 

暫くは冷静に聖霊に明け渡せないでいました

 

 

 

 

そうこしているうちに娘は出かけ、

 

 

 

 

その後僕は家の中で怒りで叫んでいた

 

 

 

 

さらにそこからは、完全に肉体に囚われ、

 

 

 

 

肉体のさまざまな感覚に敏感になり

 

 

 

 

肉体にまつわる欲求が止まらない

 

 

 

 

 

心が聖霊と一致して静寂に包まれた時は、

 

 

 

よくこのような事になってしまう

 

 

 

 

 

まさに自我が脅威を感じて、激しく抵抗しているのだろう

 

 

 

 

 

もう典型的なパターンで笑ってしまうぐらいである

 

 

 

 

そう、もう笑い飛ばせばいいのだと思う

 

 

 

 

ついつい、また自我を選択している!

 

 

 

 

と深刻になりがちなのだが、

 

 

 

 

そこに力を与える必要はない

 

 

 

 

もうこの自我のシステムは十分学んで理解しているので、

 

 

 

 

慌てる必要はない

 

 

 

 

ただ、聖霊に助けを求め

 

 

 

 

その怒りや肉体への想いを眺め

 

 

 

 

通り過ぎるままにさせておけばいい

 

 

 

 

そうすれば、肉体は聖霊の目的のために仕えるだけである

 

 

 

 

肉体は聖霊のしもべとなる

 

 

 

 

 

 

そこに真の自由がある

 

 

 

 

 

 

 

全てが赦しの機会である

 

 

 

 

 

 

いよいよ、本気で神を思い出す意欲の現れなのかも知れない

 

 

 

 

 

 

 

聖霊よありがとう