呼吸するだけで罪を覚える
日常赦しを実践して来て最近思うのは、形態のレベルで理不尽な攻撃を受けたり、とでんもない不幸な出来事が身に降り掛かったり、というようなことはほとんどない。
勿論赦しをすると形態レベルが良くなる、という法則はない。
形態はどこまでいっても幻想であり、夢だからである。
これまでの人生を振り返って見ると、今思うのはそれほど酷い出来事が『身に降り掛かった』というような感覚はない。
このブログで書いて来たように、いかにも悲惨な現実を体験しているような気がしないわけではない。
ただはっきり体感しつつあるのが、明らかにそれらの全てが自分の内側でしか起こっていないということである。
だから逆に、ここ最近、形態レベルではどれほど周囲が優しさに満ちているように見えていても、居心地の悪さや罪悪感を強烈に感じる。
時々は外側の『誰か』に投影することもあり攻撃したくなるのだが、よく見るとそこには明確な罪が見えない。
とすれば、自分の内側にしかその罪は存在しないかに見える。
この感覚の恐ろしさは尋常ではない。
僕自身が罪そのものと一体化していしまっている。
自分の存在感そのものが罪悪でしかない。
呼吸するたびに罪を増大させ、罪悪感の刺すような痛みに耐えられない。
と、このような文章を書きながら手が震える。
外側は無である。
この真実に対するあまりの恐怖感から、そのことをなかなか受け容れられない。
しかし、自分はこのとてつもない恐れを保持し続けたいのだろうか?
神から隠れ続けていたいのだろうか?
いや、もう懲り懲りである。
本当は神を思い出したい。
だからこそ、毎瞬毎瞬そんな狂気は真理ではなく、真理は真理でしかないと完璧に知っている存在に助けを求める以外にはない。
毎瞬の一つ一つの狂った想念を丁寧に聖霊に差し出し続けるしかない。
スマホ見ながらすれ違う人が自分にぶつかりそうになった時に感じる怒りや、メールのやり取りに違和感を感じたり、人にどう思われるかと感じたり、ちょっとした後ろめたさを感じたり、お金に対する不安を感じたり、
どのような形であれ、愛と平安を感じていないのであれば、自分は間違っているのである。
この『想い』を隠さずに、聖霊に明け渡し続けいく。
そうすれば聖霊が取り消してくれる。
もとより一切存在しなかったものである。
贖罪が完了していることを本気で受け容れたい。