本当は分かち合いたい
他人とのコミュニケーションが少なくなると、とても不安になりかなり孤独感に包まれる。
ある種疎外感のようなものを感じる。
それでいて孤独というものを好んでいるところがある。
他人が怖い。
人と深く関わるのが怖い。
コース学習者であれ、そうでない人であれ、自分をさらけ出すのは怖い。
これまでかなりさらけ出して来たと思っているが、それでもいつでも逃げ出す準備ができている。
常に防衛しようとしてきた。
だけど防衛することの方がもう苦しくて仕方ない。
もう防衛したくない。
全ての兄弟が自分と同じ神の子であることを知りたい。
その目的のためだけに全てを捧げたい。
そのために、兄弟達と結びついていきたい。
兄弟達は聖霊そのものである。
『私は肉体ではない』というコースの根幹を成す概念がある。
この自分の肉体は、ただ兄弟と分かち合うためにある。
兄弟と結びつき、コミュニケーションを取り、深い所に隠し持っていると思っている罪の想念を光の元に持っていくためだけにある。
兄弟とのコミュニケーションも、最初のうちは自我の特別な関係を結ぶために活用されるかもしれない。
それもプロセスである。
その特別性を求める動機が何であるかを認識するためのプロセスである。
肉体、すなわち自我の想念を温存するために特別性を活用する。
実際には自我は存在しない。
存在しないものを温存し続けようというのはまさに狂気である。
しかしこれはただの間違いであり、恐れる事はなく、毎瞬聖霊に捧げ取り消してもらえばいいのだ。
ふと気になる人がいれば、その人にアクセスすればいい。
そこに多少自我の想念が働こうが、全てが赦しの機会であるのだから。
ただ、自我か聖霊か、どちらと一緒に決断をしたか、は常に意識しておきたい。
無駄に目覚めを遅らせる必要もない。
ああ、もっともっと分かち合いたい。
闇と思っているものをさらけ出し、分かち合い、兄弟の中に真の自己を認識したい。
キリストの顔が見たい。
これから様々な肉体と出会っていくのだろう。
その肉体が幻想であった事を思い出すために。
神を思い出すために。