神の教師と生徒との完璧な出会い
あるコース実践者の方のブログで下記のようなことが書いてありました。
コースの教師が生徒の言っていることに対し、それは違うよ、と相手を正したくなったり、あるいは一度『それは違うよ』と言っておいて、後々「最近、学びが進んでやっぱりあなたの言った通りですね」と言ったりすることもある、と。
そうすると最初に間違いを指摘された生徒はどうなるのだ?と。
つまり学びが遅れるのでは、というようなニュアンスンだと思います。
また、学ぶ際に私たちはどうしても〝集おう〟としてしまい、集うとその中で中心的なリーダーが生まれる。その集いは、リーダーのための学びの場となる、と。
要は、これらは教師のエゴからの言動であり、その教師と生徒の関係や学習グループの関係性がエゴの強化に繋がる、という意味のことだと思います。
これについて、少し疑問が湧きました。正直に内側を見ると少し裁きたい想いもあるのだな、と。
まずはここに分離していたい欲求があることを認め、それを聖霊に委ね訂正してもらう。
これが常にプライオリティーですね。
そしてこれについて、奇跡講座マニュアル編の中の『教師のためのマニュアル』と『精神療法』を開いてみると、いくつからこれらに対する明確な答えを見つけました。
M-2.1:1-2
『神の教師の一人ひとりに特定の生徒たちが割り当てられており、教師が呼びかけに応えたなら生徒はただちに彼を探し始める。その生徒たちが彼のために選ばれた理由は、彼が教える事になる普遍なるカリキュラムの形態が、理解のレベルという観点から彼らに最適だからである。』
P-2.Ⅰ.4:3-6
『セラピストとは、いくらか専門的に神の教師として働く者にすぎない。彼は教えることを通して学び、進歩すればするほどより多くを教え、より多くを学ぶ。しかし、彼がどの段階に居ようとも、ちょうどその段階に居る彼を必要とする患者たちがいる。彼らは今のところ彼が与えることができる以上のものを受け取ることはできない』
つまり、たとえ教師が間違ったことを生徒に伝えたとして、それも両者の学びにとって必ず完璧だということです(そもそも間違いすら存在しないのですが)
一見間違いを教え学びが遅延しているように思えても、それさえ神の救済計画の一部として双方にとって最適だということでしょうね。
学び方や理解の仕方、その進み具合などは、それぞれ準備の度合いによって様々ですし、彼らの出会いも既にシナリオとしてほぼ定められているとも言えます。
そして、例えば先ほどの例で、教師が自分のエゴからの言動であったとして、それを(教師本人であれ、生徒であれ)気付いたなら、それが大いなる赦しのチャンスになります。
そうやって学びを深め合っていく。
これこそが、コースの中でもかなり重要な概念の一つである、
『教える事と学ぶ事は同じである』
ということを現しているのだと思います。
そもそも真理から言えば、教師も生徒も実在しません。
教えるべきレッスンも実相では必要ありません。
しかし実相を忘れることを選び、幻想世界をを創り出したと信じてる心にとっては、レッスンも教師も『一時的に』必要なのです。
また、このコースはあくまでも『自学自習のコース』であり、必ずしも学習グループやコミュニティーを作って学ぶ必要はない、と言われており確かにその通りです。
ただ、そのようなグループを『作ってはいけない』ということも、何処にも書いていません。
コースの中には、『行動』については一切述べらていいません。
それでも、このコースを学ぶのはかなり難しい、と言われていますし実際にそう思います。
加藤三代子さんの『原因についてのコース』でも言われているように、その内容のせいではなく『その内容に対する自我の抵抗』のせいで、学ぶのが難しく、頻繁にその内容が誤解されてしまっています。
仮に抵抗がさほどなかったとしても、内容自体もやはりそれなりに難しいと思います。
このことについては、多くのコース学習者の方が賛同されるのではないでしょうか。
その観点からいうと、やはり一人で3部作に向かって自学自習、というのでは多くの人が挫折してしまう可能性は否定できません(実際に挫折される方は多いし、僕も何度か挫折しかけています)
勿論その挫折でさえも、『その人の準備ができていないから』、あるいは『シナリオ』という風に考えることもできますが。
逆に言えば、準備がある程度出来ている人であれば、難しくて挫折しそうになった時に、自然とJACIMのサイトや様々な関連書籍、コース学習者のブログ、あらゆる学習グループなどにアクセスし、そこで何らかの気づきを得ながら、学習を続けていくというパターンは比較的多いですし、それはとても自然なことだと思います。
自学自習とばかりに拘って、その他の情報を遮断してテキストだけ読んでいても、やはり自我は自我の維持のためにコースの内容を曲解してしまう恐れが高いわけですから、そこに拘る必要はないですね。
やはり、何度も言うように、その行動をする際の動機(どのような心の状態であるか)こそ、常に意識しておきたいポイントです。
自我か聖霊か
ということですね。
今日述べたようなことを本当に理解すると、学びを進めていく際に出て来る様々疑問によって、学びのプロセスを遅らせる必要は一切ないと分かって来ます。
自分でもこの点を再度気付けた事で、さらに霧が晴れたような感覚です。
そういう意味でも、その冒頭のブログ記事も、聖霊による大切なレッスンとして差し出されたのですね。
聖霊よいつも導いて下さり、ありがとうございます☆