ああ、丸裸になりたい
いえ、別に露出癖があるわけではありません(笑)
この世界での『僕』は、比較的人当たりがいいとか、話しやすいとよく言われます。
初対面の人でもすぐにある程度オープンに関わることができると思います。
しかし、本当はものすごくものすごく他人と関わる事を恐れているようです。
とにかく隠れていたくてしょうがない。
丸裸どころか自分の姿を見られることすら、とても恐れている
昨日は一日中家にいて、夜に家族が帰ってくるまでずーっと一人でしたが、
その時よーく内面を見ていると、自分は常に得体の知れない『何か』を恐れていてその『何か』から自分自身を防衛しようとしている。
いてもたっても居られないぐらい、落ちつかない。
目の前に誰もおらず、訪問者も電話もなく、さほど外の騒音もなく、快適な家の中で一人まさに守られているような状況にも関わらず、である。
このことから、コースでずっと学んで来た二つのことを改めて認識した。
一つは、心の平安とは、この物理的世界で起こっていること、見えていることとは、
一切、何ら、全くもって関係ない!
ということ。
一度恐れの思考を掴み始めると、この快適な空間が地獄にしか思えなくなってくる。
この『妄想の暴走』はすさまじい勢いだ。
創造するパワーというのは本当にすごいものである。
この世界で見えているものは、単なる自我の投影である、という文章を文字通り読んでいるだけでは、なかなか腑に落ちないかも知れないが、このように内面を観察することで本当に体感していく。
それともう一つは、原初の神との分離を強烈に信じていて、自我の世界を維持したいと本気で思っているということだ。
だから心が無罪性を感じ始め、平安を感じ始めると、自我は私たちを攻撃する。
奇跡講座テキスト(中央アート出版)の中に下記ような文章があります。
『自我にとっては、罪悪感なきものは有罪である。』(T-13.Ⅱ.4:2)
自我の存亡にとっては、『罪悪感』こそが必要不可欠なのです。
結局のところ、とてつもなく神を恐れている、ということですね。
投影を辞め、罪悪感を完全に取り消してしまうと、自我は消滅してしまい、神の中に溶け混んでしまうのですが、それを極度に恐れている。
なので、外側の世界がどれほど安全で愛に満ちているように見えても、まだ自我を選択している心は四六時中『罪』を探しまわっているのです。
そうやって、一日中憎悪や、焦り、罪悪感、憂鬱感など、狂気の妄想にとりつかれているわけす。
しかし、そこまで理解しているのであれば、後はほんの些細な意欲さえあればいいんでしたね。
自分はこの罪悪感を持ち続けたいのか?
投影し続け、分離を本当に本当に維持しておきたいのか?
と、静かに内側に聴く。
すると、やはり答えはNOです。
ならば、決断の主体に戻って、聖霊に間違った心を訂正してもらえばいい。
本当に日々この繰り返しが神の王国への導きとなるのです。
日々の体験の全てがレッスンとなりますね。
そして神の中へ飛び込みたい
ああ、真の自己として、兄弟へ全てをさらけ出したい
心を闇の中に隠さずに、もっともっとオープンでいたい。
そのような自分でいられますよう、ジーザスよどうか私を助けて下さい。