奇跡講座と日々の気づき

奇跡講座の実践と日常の気づきをシェアしていきます。

愛は恐れ、恐れは愛

愛を恐れと間違って知覚している、ということを最近体験的に理解しつつある。

 

 

 

奇跡講座の学びを深めていけばいくほど、ほんの些細な感情の変化を自覚的に察知してしまう。

 

 

 

先日も仕事中ある方に仕事のことで確認している時、最初は何の心象も残さないような感じで会話していたが、一瞬の僕のリアクションに対して、その方の顔が少し曇って、言葉のトーンが重くなったと感じた。

 

 

 

以前なら、別に大したことではないし、『あ、ちょっと変な言い方したかな?』ぐらいで、すぐ忘れていたのだけれど、今回は未だにその方の表情が脳裏から離れず、その時の自分のリアクションがどんな感じだったかな?という思考に支配されていた。

 

 

 

そういえば、僕がリアクションする前に、相手の言葉が一瞬自分にとって違和感があったことを思い出し、だから僕がちょっと変なリアクションをして、それに対して相手がまた違和感を感じて、、、

 

 

 

という具合に、この分離した二つの肉体が実在すると信じ、攻撃と防御が繰り返されている、ということを信じている。

 

 

 

この線形に流れる時間枠を前提に、因果関係があたかも論理的に展開されているように思える。

 

 

 

そこにとてつもない恐れが隠されており、さらにその恐れを強固なものにする自我の巧妙な企みがあるのだ。

 

 

 

 

しばらくの間、その『相手』が実在すると信じて、その方にとてつもない恐れを抱いているのだ、ということに気が付いた。

 

 

 

 

 

さて、僕は本当にその方との分離を信じていたいのだろうか?

 

 

 

 

 

防御すべき攻撃があると信じていたいのだろうか?

 

 

 

 

恐れにいつまでも執着していたいのだろうか?

 

 

 

 

 

と、静かに内側に聴いたとき

 

 

 

 

 

本当はその相手と真に繋がりたいと、切に願っていることに気がついた

 

 

 

 

 

その相手と既に繋がっていて、何の分離も存在しないと

 

 

 

その相手を真に愛したいと

 

 

 

自分自身もその相手も愛そのものであったと

 

 

 

 

本気でそのことを思い出したい

 

 

 

恐れは神の💓、真の愛に対する間違った知覚でしかないことを本当に知りたい

 

 

 

 

そして神を代弁する声に耳を傾けそれを教えてもらおう

 

 

 

聖霊にこの間違いを訂正してもらおう

 

 

 

 

本当は恐れは存在しない

 

 

 

 

罪も存在しない

 

 

 

神の愛だけがそこにある💓

 

 

 

 

このようにほんの些細な日常の葛藤も全て神の計画であり聖霊のレッスンとして使っていけるのですね😃

 

 

仕事を転々として学んだレッスン

体調のことなどいろいろあって、ここ1年半ぐらいで何度も職場が変わって来た、、、

 

  

そして、その度に研修を受け新しい人間関係を築いていく。

 

 

 このような体験から、

 

 

 目に映る全てのものは、実在しない罪を、あると信じて外に投影し続けているに過ぎない、

 

 

 というコースの概念を、とてもリアルに体感している。

 

 

 どの職場に行っても、そこで働く人たちのキャラクターの分布というかパターンがほぼ全く同じなのである。

 

 

 

 

 親分肌でぐいぐい人を巻き込む人

 

そういう人について行く人

 

えらそうで、ちょっとイラッとする人

 

ただ中立的な人

 

優しくて面倒見のいい人

 

とても内向的であまり人と接しない人

 

 

などなど

 

 

 

自分は恐らく、いつも比較的中立的なポジションにいる気がする。

 

 

 僕はある程度人と合わせられるけれど、

 

 

最近は濃い繋がりに対しすごく疲れを感じるので、

 

 

あまり深く人とは関わりたくない。

 

 

一人でいる方が気楽だ

 

 

 と常に思っていたが、

 

 

何人かがグループになって親しくしていて、

 

 

そこになじめないと、

 

 

 疎外感や、嫌われていないだろうか?

 

 

 と、いう思いがすごく根強いことに気付いた。

 

 

 

 

 

やはり、自分の中に存在し得ない『罪』がある、と未だに強烈に信じているのだ

 

 

つまり分離を強く信じており、

 

 

自分の中を断片化した様々な形態を出会う人物に投影している

 

 

だから、どこに行こうが、必ず

 

 

先ほどのような様々なキャラクターの人たちに出会う事になる。

 

 

 

 

それらは全て赦しの機会であり、差し出されているレッスンなんですね。

 

 

 

本当にこれらはただの間違いであり、それを受け入れ聖霊に依頼すれば、

 

 

必ず取り消しはなされる。

 

 

未だに形の上でのいい人間関係を求めようという動機が多少あるようだ。

 

 

 

 

 しかし自分は本当にそのように『制限された』形として、兄弟を認識したいのだろうか?

 

 

 いや、そこには本当の平安はない

 

 

 

最近ますます、真の平安を求める意欲が強まって来ている

 

 

 

 

 

 奇跡講座のワークブック(中央アート出版)に次のような言葉がある

 

 

 

 

私が見たいのはこれではない。

 

私は、自分と一つである兄弟達を信頼する。

 

(W-pI.181.6:4-5)

 

 

 

今の自分にとって、ともて大切なレッスンだと感じる。

 

 

日々どの瞬間も、聖霊の導きに耳を傾けていきたい。

 

 

ああ、丸裸になりたい

いえ、別に露出癖があるわけではありません(笑)

 

 

 

この世界での『僕』は、比較的人当たりがいいとか、話しやすいとよく言われます。

 

 

 

 

初対面の人でもすぐにある程度オープンに関わることができると思います。

 

 

 

 

しかし、本当はものすごくものすごく他人と関わる事を恐れているようです。

 

 

 

 

とにかく隠れていたくてしょうがない。

 

 

 

 

丸裸どころか自分の姿を見られることすら、とても恐れている

 

 

 

 

 

 

 

昨日は一日中家にいて、夜に家族が帰ってくるまでずーっと一人でしたが、

 

 

 

 

その時よーく内面を見ていると、自分は常に得体の知れない『何か』を恐れていてその『何か』から自分自身を防衛しようとしている。

 

 

 

 

いてもたっても居られないぐらい、落ちつかない。

 

 

 

 

目の前に誰もおらず、訪問者も電話もなく、さほど外の騒音もなく、快適な家の中で一人まさに守られているような状況にも関わらず、である。

 

 

 

 

このことから、コースでずっと学んで来た二つのことを改めて認識した。

 

 

 

 

一つは、心の平安とは、この物理的世界で起こっていること、見えていることとは、

 

 

 

一切、何ら、全くもって関係ない!

 

 

 

ということ。

 

 

 

 

一度恐れの思考を掴み始めると、この快適な空間が地獄にしか思えなくなってくる。

 

 

 

この『妄想の暴走』はすさまじい勢いだ。

 

 

 

創造するパワーというのは本当にすごいものである。

 

 

 

 

この世界で見えているものは、単なる自我の投影である、という文章を文字通り読んでいるだけでは、なかなか腑に落ちないかも知れないが、このように内面を観察することで本当に体感していく。

 

 

 

 

 

 

 

それともう一つは、原初の神との分離を強烈に信じていて、自我の世界を維持したいと本気で思っているということだ。

 

 

 

 

 

だから心が無罪性を感じ始め、平安を感じ始めると、自我は私たちを攻撃する。

 

 

 

 

 

奇跡講座テキスト(中央アート出版)の中に下記ような文章があります。

 

 

 

 

『自我にとっては、罪悪感なきものは有罪である。』(T-13.Ⅱ.4:2)

 

 

 

 

自我の存亡にとっては、『罪悪感』こそが必要不可欠なのです。

 

 

 

 

結局のところ、とてつもなく神を恐れている、ということですね。

 

 

 

投影を辞め、罪悪感を完全に取り消してしまうと、自我は消滅してしまい、神の中に溶け混んでしまうのですが、それを極度に恐れている。

 

 

 

 

なので、外側の世界がどれほど安全で愛に満ちているように見えても、まだ自我を選択している心は四六時中『罪』を探しまわっているのです。

 

 

 

 

そうやって、一日中憎悪や、焦り、罪悪感、憂鬱感など、狂気の妄想にとりつかれているわけす。

 

 

 

 

しかし、そこまで理解しているのであれば、後はほんの些細な意欲さえあればいいんでしたね。

 

 

 

 

 

自分はこの罪悪感を持ち続けたいのか?

 

 

 

 

投影し続け、分離を本当に本当に維持しておきたいのか?

 

 

 

 

と、静かに内側に聴く。

 

 

 

すると、やはり答えはNOです。

 

 

 

 

ならば、決断の主体に戻って、聖霊に間違った心を訂正してもらえばいい。

 

 

 

 

本当に日々この繰り返しが神の王国への導きとなるのです。

 

 

 

 

日々の体験の全てがレッスンとなりますね。

 

 

 

 

 

 

そして神の中へ飛び込みたい

 

 

 

ああ、真の自己として、兄弟へ全てをさらけ出したい

 

 

 

心を闇の中に隠さずに、もっともっとオープンでいたい。

 

 

 

 

 

 

そのような自分でいられますよう、ジーザスよどうか私を助けて下さい。



 

 

 

神の教師と生徒との完璧な出会い

あるコース実践者の方のブログで下記のようなことが書いてありました。

 

 

 

コースの教師が生徒の言っていることに対し、それは違うよ、と相手を正したくなったり、あるいは一度『それは違うよ』と言っておいて、後々「最近、学びが進んでやっぱりあなたの言った通りですね」と言ったりすることもある、

 

 

そうすると最初に間違いを指摘された生徒はどうなるのだ?と。

 

 

 

つまり学びが遅れるのでは、というようなニュアンスンだと思います。

 

 

 

 

また、学ぶ際に私たちはどうしても〝集おう〟としてしまい、集うとその中で中心的なリーダーが生まれる。その集いは、リーダーのための学びの場となる、

 

 

 

要は、これらは教師のエゴからの言動であり、その教師と生徒の関係や学習グループの関係性がエゴの強化に繋がる、という意味のことだと思います。

 

 

 

 

これについて、少し疑問が湧きました。正直に内側を見ると少し裁きたい想いもあるのだな、と。

 

 

 

まずはここに分離していたい欲求があることを認め、それを聖霊に委ね訂正してもらう。

 

 

これが常にプライオリティーですね。

 

 

 

 

 

 

そしてこれについて、奇跡講座マニュアル編の中の『教師のためのマニュアル』と『精神療法』を開いてみると、いくつからこれらに対する明確な答えを見つけました。

 

 

 

M-2.1:1-2

 

『神の教師の一人ひとりに特定の生徒たちが割り当てられており、教師が呼びかけに応えたなら生徒はただちに彼を探し始める。その生徒たちが彼のために選ばれた理由は、彼が教える事になる普遍なるカリキュラムの形態が、理解のレベルという観点から彼らに最適だからである。』

 

 

P-2.Ⅰ.4:3-6

 

『セラピストとは、いくらか専門的に神の教師として働く者にすぎない。彼は教えることを通して学び、進歩すればするほどより多くを教え、より多くを学ぶ。しかし、彼がどの段階に居ようとも、ちょうどその段階に居る彼を必要とする患者たちがいる。彼らは今のところ彼が与えることができる以上のものを受け取ることはできない』

 

 

 

つまり、たとえ教師が間違ったことを生徒に伝えたとして、それも両者の学びにとって必ず完璧だということです(そもそも間違いすら存在しないのですが)

 

 

 

一見間違いを教え学びが遅延しているように思えても、それさえ神の救済計画の一部として双方にとって最適だということでしょうね。

 

 

 

学び方や理解の仕方、その進み具合などは、それぞれ準備の度合いによって様々ですし、彼らの出会いも既にシナリオとしてほぼ定められているとも言えます。

 

 

 

そして、例えば先ほどの例で、教師が自分のエゴからの言動であったとして、それを(教師本人であれ、生徒であれ)気付いたなら、それが大いなる赦しのチャンスになります。

 

 

 

そうやって学びを深め合っていく。

 

 

 

これこそが、コースの中でもかなり重要な概念の一つである、

 

 

『教える事と学ぶ事は同じである』

 

 

ということを現しているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも真理から言えば、教師も生徒も実在しません。

 

 

教えるべきレッスンも実相では必要ありません。

 

 

 

 

しかし実相を忘れることを選び、幻想世界をを創り出したと信じてる心にとっては、レッスンも教師も『一時的に』必要なのです。

 

 

 

 



 

また、このコースはあくまでも『自学自習のコース』であり、必ずしも学習グループやコミュニティーを作って学ぶ必要はない、と言われており確かにその通りです。

 

 

 

ただ、そのようなグループを『作ってはいけない』ということも、何処にも書いていません。

 

 

 

コースの中には、『行動』については一切述べらていいません。

 

 

 

 

 

それでも、このコースを学ぶのはかなり難しい、と言われていますし実際にそう思います。

 

 

 

加藤三代子さんの『原因についてのコース』でも言われているように、その内容のせいではなく『その内容に対する自我の抵抗』のせいで、学ぶのが難しく、頻繁にその内容が誤解されてしまっています。

 

 

 

 

仮に抵抗がさほどなかったとしても、内容自体もやはりそれなりに難しいと思います。

 

 

 

 

 

このことについては、多くのコース学習者の方が賛同されるのではないでしょうか。

 

 

 

 

その観点からいうと、やはり一人で3部作に向かって自学自習、というのでは多くの人が挫折してしまう可能性は否定できません(実際に挫折される方は多いし、僕も何度か挫折しかけています)

 

 

 

勿論その挫折でさえも、『その人の準備ができていないから』、あるいは『シナリオ』という風に考えることもできますが。

 

 

 

 

逆に言えば、準備がある程度出来ている人であれば、難しくて挫折しそうになった時に、自然とJACIMのサイトや様々な関連書籍、コース学習者のブログ、あらゆる学習グループなどにアクセスし、そこで何らかの気づきを得ながら、学習を続けていくというパターンは比較的多いですし、それはとても自然なことだと思います。

 

 

 

 

自学自習とばかりに拘って、その他の情報を遮断してテキストだけ読んでいても、やはり自我は自我の維持のためにコースの内容を曲解してしまう恐れが高いわけですから、そこに拘る必要はないですね。

 

 

 

やはり、何度も言うように、その行動をする際の動機(どのような心の状態であるか)こそ、常に意識しておきたいポイントです。

 

 

 

自我か聖霊

 

 

 

ということですね。

 

 

 

 

今日述べたようなことを本当に理解すると、学びを進めていく際に出て来る様々疑問によって、学びのプロセスを遅らせる必要は一切ないと分かって来ます。

 

 

 

自分でもこの点を再度気付けた事で、さらに霧が晴れたような感覚です。

 

 

 

そういう意味でも、その冒頭のブログ記事も、聖霊による大切なレッスンとして差し出されたのですね。

 

 

 

聖霊よいつも導いて下さり、ありがとうございます☆

 

 

奇跡講座を学び始めると状況は悪化するのか?

奇跡講座を『本気で』学び始めると、一見この幻想レベルにおいて、今までより状況が悪化していくように思えることが多々あると言われています。

  

僕もこのブログで書いている通り、そのようなことを実際に体験してきました。

 

勿論、日常のほんの些細な出来事を赦しながら少しずつ目覚めていく事はできます。

 

 

 

コースでイエスは、『奇跡に難易度の差はない』と言っていますね。

 

6年ほど前コースを学び始めた初期の頃は、そのような概念を『好んで』意識していたように思います。

 

ですから、必ずしも幻想世界でさほど大きな葛藤を体験することなく幸せな夢を見ながら、静かに贖罪を受け容れていき、キリストとして目覚められるのだ、と。

 

 

確かにこのことは事実でしょうし、不可能な事ではないのでしょう。

 

 

しかし、何年も経って最近の学習グループでの学びの中でも、

  

『やはり本気で目覚めることを選択し、赦しを実践していくと、どうしても非常に大きな困難や葛藤を体験せざるを得なくなる』(大半の人がそのような体験をするというニュアンス)のことがよく言われていました。

 

 

自分や兄弟達の体験を見ていても、これは確かにあるあるだな、と最近は特に感じます。

 

 

ただ最近までは、『必ずしもそのようことを体験する必要もない』、という概念との葛藤があり、少し釈然としない感覚もどこかにありました。

 

 

 

しかし、ワプニク博士の『奇跡の原理』の中の『原理47』を読んでいて、改めて腑に落ちました。

 

 

 

※原理47

 

『奇跡は時間の必要性を減らす学習手段である。それは通常の時間の法則からはみ出した特異な時間枠を確立する。この意味において、奇跡には時間がない』

 

 

 

 要はこの『時間を減らす(省く)』という概念がキーになります。

 

 

 冒頭に、『本気で』学び始めると、と書きましたが、これは分かりやすく言うと、

 

 

『もうこの自我の幻想世界は懲り懲りで、大幅に時間を短縮して早く目覚めたい』

 

 

聖霊にお願いした、ということですね。

 

 

そして聖霊はそのリクエストを真に受けたのです(笑)

 

 

 だから聖霊は、時間を短縮するために通常の時間枠の法則を崩壊させなくてはなりません。

 

 

 この視点から、幻想世界でより困難な状況体験する、ということを自分なりに考えてみました。

 

 

 

要するにビッグバンから始まり、永遠とも思える時間枠の中で、おびただしい量の罪悪感というものを人類は体験してきたわけす。

 

 

 人類と言っても、真理から言えば、深い眠りに入って悪夢を見ている一なる神の子の心の投影なわけです。

 

 

で、幻想世界の中で比較的穏やかな体験を通して、赦しを実践していっても目覚めには近づいていくわけですが、これほどとてつもない罪悪感の全てを赦すためには、これまた永遠と思えるほどの時間がかかってしまうのでしょう。

 

 

 だから、リクエストを受けた聖霊は、一気にその赦しのレッスンを学ばせるために、ある程度ドラスティックな学びが必要なのだということだと思います。

 

 

 これまでの人生で体験した事のないような問題が次々に起こることで、他に何か違った物の見方があるはずだ、と立ち止まり、そして真摯に赦しを実践していく意欲になるのだと思います。

 

 

 穏やかなレッスンでは、どうしてもその心地よい現実に微妙だけれど執着するという、自我の罠が入り込みやすくなるんですよね。

 

 

 ということで、時間を短縮するという過程において、非常に難しく辛い状況を通過していく、ということが往々にして起こりうるということになるのでしょう。

 

 

 

 学びの準備がまだ出来ていない人、つまりまだ自我を温存させておき本気で目覚めたいと思っていない人にとっては、今述べた事は『恐れ』になってしまいますね。

 

 

 しかし僕の体験から言うと、やはり『本気度』が増していくにつれ、この幻想世界で非常に辛い状況を体験する事を段々恐れなくなっていきます。

 

 

 むしろ、間違いなく贖罪は進んでおり、目覚めに近づいているのだと以前より確信が持てるようになってきました。

 

 

 ただ、未だに目の前の状況に対して心折れそうになる瞬間はありますが、それでもそれこそが聖霊にもっと全面的に委ねる機会なのだ、と思って日々実践していくことができます。

 

 

 まあ、どこまでいっても幻想は幻想ですから、シリアスにならずに赦して行きたいものですね。

 

 

犠牲者であり続けたいのか?

どうしても習慣的に自分の惨めさや犠牲という想念を握りしめようとする

 

 

 

 

自分は十分に稼ぐ事も出来ず、肩の痛みも時折酷くなったり、

 

 

こんなんじゃあ家族を養う事なんてできない

 

 

だけど、できる範囲で精一杯家族のために尽くそうともがいてる

 

 

なのに、わかってもらえない、、、

 

 

 

 

 

 

と、こんな風に自分が犠牲者であるという立場に居続けようとする

 

 

 

 

自我にとって、とても魅力的なこの『犠牲』という思考

 

 

 

根底には、やはり神との分離を維持し続けたいという想いが根強く残っている

 

 

 

あり得ない狂気を真実としたいと未だに本気で思っている

 

 

 

そのためには犠牲者が必要だし、攻撃が必要だし、惨めである自分を守る必要がある

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、本当に本当にそんな狂気の世界を僕は真に望むのだろうか???

 

 

 

 

心を鎮めて、内なる声に耳を傾ける

 

 

 

いつものように涙が溢れてくる

 

 

 

ああ、愛を懇請して泣き叫んでいるんだな

 

 

 

 

 

ああ、もうこのような分離、自我の想念を信じていたくはない!!

 

 

 

このような狂気の世界をただ通り過ぎて、キリストの光の中に溶けてしまいたい!!

 

 

 

それが真の望みなんだ

 

 

 

 

 

 

毎瞬ジーザスに自我の思考を明け渡し取り消してもらうよう祈り続けよう

 

 

 

ただ、それだけでいい

 

 

 

 

 

 

ジーザスよ

 

 

この知覚している世界は幻想であ

神はこの世界を一度も創造しなかった

 

 

 

ということを真に教えて下さい

 

 

 

私を導いて下さい

 

 

 

私を使って下さい

 

 

 

どうかお願いします

 

 

 

Advanced course in miracres!!

どれだけ恐れに投資しているのだろう

 

 

気がつけば1日の大半を肉体を守るためのあらゆる思考に気を散らしている

 

 

家計のやりくり

 

 

それと関連した仕事への本格的復帰についての葛藤

 

 

一向に回復しない肩、腕の痛み

 

 

よくありがちなこれらの心配に多くの時間、思考が支配されている

 

 

それでも、少し前までは、いわゆる現実創造のようなことに再び意識が向かっていたのが、改めてそのような無益な旅を長引かせたくはない、という想いが強くなって来ている

 

 

なので、自我に深く囚われている事に気がついた時には、聖霊に委ねるとともに、最近はは再び意識的にyou tubeでデイヴィッドの動画や、Yumiko Emaさんのコース朗読の動画などを見ることにしている

 

 

 

今の自分は、これらの動画によって、すぐさま中心に戻りマインドが静かになる

 

 

そうすることで、よりリラックスして聖霊に思考を明け渡す事ができる

 

 

 

 

さっき言ったように、一時期現実創造の方向に思考が傾いてた時は、デイヴィッドの動画を見る気がしなかった

 

 

 

ちらっと見ては、何かとあら探しをしてはネガティブな突込みを入れ、拒絶する

 

 

 

そしてイエスに献身している兄弟達の言動でさえ、いちいち疑いの角度から見るということをしていた

 

 

 

しかし、改めて『真理を幻想の中に持ち込む』ことの無意味さに気付いてからは、捉える角度が180度転換する

 

 

 

ここ数日はデイヴィッドの動画が、もうこれでもか、というぐらい心にしみこんで来る

 

 

 

例えば下記の動画のある箇所(1:30:43 〜1:30:56)でデイヴィッドは、以下のように言ってている

 

 

 

 


Awakening Is a Matter of Desire - David Hoffmeister ACIM

 

 

『The curriculum I'm teacing is like advanced,advanced,advanced, advanced course in miracles! 

This stuff is, this is way beyond course groupes,way beyond course conferences,way beyond most retreats.』

 

 

『私が教えるカリキュラムは、(何よりも)ものすごく、ものすごく、ものすご,ものすごく先に進んだ(上級の?)コースです。

世界中のどんなコースグループ、どんなコースカンファレンス、ほとんどのリトリートなどを遥かに超えた要素があります。』


訳が適切かどうかわかりませんが、こんなニュアンスかな。英語のみの動画ですが、さすがに他の箇所の翻訳まではできていませんが、気が向いたら他の部分も訳せたらと、、、あ、今見たら英語字幕がついたようですね

 

 

そういえば、コースティーチャーののりちゃんも、デイヴィッドたちのコミュニティーの妥協ない、ガチの学びはマジでヤバい、的なことをよく言っていた

 

 

一時期あらゆことに疑いや抵抗が出て来た時は、このことさえ、むしろものすごく否定的に感じた

 

 

つまりこのコミュニティーは特に妥協がないとか、本気だとか、そういうこと自体が自我の特別性じゃないのか?分離を強化しているのではないか?と、思ったりもした

 

 

 

しかし、昨日この動画を見た時は、さきほどの引用した部分を聴いた時に、何か強烈にみぞおち辺りからこみ上げて来て、そして泣きじゃくってしまったのだ

 

 

 

どれほどイエスに献身し、Wayshowerとし神への道を先に歩んでくれているのだろう、という深い感謝の想いと、自分がこれほどまでに抵抗していた神への道を進むことに恐れる必要はないんだと、という一種の強烈な開放感があったように思う

 

 

 

また、テキストの至る所でイエスは、自分に献身し協力してくれる兄弟が必要だ、という呼びかけを何度もしている。

 

 

 

改めてイエスの声に耳を傾けることに歓びを感じるようになってきた

 

 

本当に『私』は退いて、より一層イエスに委ねていけるようになりたいと思う

 

 

 

まだまだこれからだが、その意欲は再び強くなって来ている