愛は恐れ、恐れは愛
愛を恐れと間違って知覚している、ということを最近体験的に理解しつつある。
奇跡講座の学びを深めていけばいくほど、ほんの些細な感情の変化を自覚的に察知してしまう。
先日も仕事中ある方に仕事のことで確認している時、最初は何の心象も残さないような感じで会話していたが、一瞬の僕のリアクションに対して、その方の顔が少し曇って、言葉のトーンが重くなったと感じた。
以前なら、別に大したことではないし、『あ、ちょっと変な言い方したかな?』ぐらいで、すぐ忘れていたのだけれど、今回は未だにその方の表情が脳裏から離れず、その時の自分のリアクションがどんな感じだったかな?という思考に支配されていた。
そういえば、僕がリアクションする前に、相手の言葉が一瞬自分にとって違和感があったことを思い出し、だから僕がちょっと変なリアクションをして、それに対して相手がまた違和感を感じて、、、
という具合に、この分離した二つの肉体が実在すると信じ、攻撃と防御が繰り返されている、ということを信じている。
この線形に流れる時間枠を前提に、因果関係があたかも論理的に展開されているように思える。
そこにとてつもない恐れが隠されており、さらにその恐れを強固なものにする自我の巧妙な企みがあるのだ。
しばらくの間、その『相手』が実在すると信じて、その方にとてつもない恐れを抱いているのだ、ということに気が付いた。
さて、僕は本当にその方との分離を信じていたいのだろうか?
防御すべき攻撃があると信じていたいのだろうか?
恐れにいつまでも執着していたいのだろうか?
と、静かに内側に聴いたとき
本当はその相手と真に繋がりたいと、切に願っていることに気がついた
その相手と既に繋がっていて、何の分離も存在しないと
その相手を真に愛したいと
自分自身もその相手も愛そのものであったと
本気でそのことを思い出したい
恐れは神の💓、真の愛に対する間違った知覚でしかないことを本当に知りたい
そして神を代弁する声に耳を傾けそれを教えてもらおう
聖霊にこの間違いを訂正してもらおう
本当は恐れは存在しない
罪も存在しない
神の愛だけがそこにある💓
このようにほんの些細な日常の葛藤も全て神の計画であり聖霊のレッスンとして使っていけるのですね😃